京都の意識学会:ASSC15

来年2011年の6月に、京都でASSC (The Association for the Scientific Study of Consciousness) という意識を科学的に研究する国際学会が開かれる。

ASSCが日本で開かれるのは今回が初めてだが、意識研究に興味がある人には、世界で最も面白い学会だろう。これから意識の研究をしてみたいと考えている人にも、ニューロサイエンスにこれまで携わってきていても、意識研究に接点がなかった人にとっても、きっとインスピレーションが得られる興味深い学会になるだろう。なかなか脳の研究をしている人でも、意識をメインに研究しているひとは少ないだろうから、意識の学会に参加する機会は珍しいかもしれない。


今回の自分が提案した、シンポジウムとチュートリアルの企画が、無事ふたつともASSCで採択してもらえた。今回は、その内容について少し説明したい。

まず、シンポジウムでは<タ認知と意識 (Metacognition and Consciousness)>というテーマで、3人の講演者を招待してメタ認知と意識の関係について議論する。


SYMPOSIUM 1: Metacogntion and consciousness

Chair: Ryota Kanai, University College London

Introduction: Ryota Kanai (University College London)

Talk 1. Stephen Fleming (University College London)
“Decisions about decisions: neural construction of metacognitive confidence”

Talk 2. Robert Hampton (Emory University, USA)
“Metacognition and memory systems in primates: Successes and limitations”

Talk 3. Peter Carruthers (University of Maryland)
“Metacognitive processes in nonhuman animals?”


 

興味のある人たちのために、招待した講演者たちがどんな研究をしてきたのか、彼らの代表的な論文を、ここでは紹介しておきたい。

一人目のSteve Flemingは、最近の論文で、ヒトのメタ認知能力に驚くほど個人差があること示した上で、そのメタ認知の個人差が前頭葉(BA10)の灰白質の量と対応しているということを示した。

Fleming et al. (2010). Relating introspective accuracy to individual differences in brain structure. Science, 329, 154-1543. 

二人目のRobert Hamptonは、メタ認知というと非常に高次な機能で人間特有のものと考えられがちであるが、動物(サル)にもメタ認知ができているということを、非常に優れた実験デザインで最初に実証したひと。動物にメタ認知があるかどうかという問題を、操作的(オペレーショナル)に、単純な条件付けではなくできているということを示すのは、なかなか難しい問題を含んでいる。その問題を、大きく克服したデザインでメタメモリー(記憶に関するメタ認知)をサルで示した意義は大きい。特に、動物に意識があるのかという問題を考える上で興味深い。

Hampton, R. (2001). Rhesus monkeys know when they remember. PNAS 98, 5359-5362. 

三人目のPeter Carruthersは哲学者だが、認知神経科学的な観点から、メタ認知と「心の理論(theory of mind、他者の内面を推測する能力)」の進化について非常に洞察力に富んだ総論を書いている。とくに、Carruthersの議論をPrecuneusの機能と進化という観点と照らし合わせて読んでいくと、社会性と意識の意外にも密接な関係が見えてくる。それで、この哲学者のアイデアには注目している。

Carruthers, P. (2009). How we know our own minds: the relationship between mindreading and metacognition. Behavioral and Brain sciences 32, 121-138.


それからCarruthersはASSCでチュートリアルも開いている。シンポジウムよりもたっぷり時間をとって、メタ認知と「心の理論」の話をするようなので、より詳しく知りたい人にはお薦め。

TUTORIAL 4: “Self-Knowledge: Philosophy meets Cognitive Science.” 

  • Peter Carruthers (University of Maryland)

Philosophers almost universally maintain that knowledge of our own occurrent mental states (including not only our own perceptions, images, and emotional feelings, but also our own current judgments, desires, and decisions) is somehow privileged and authoritative. In contrast, a wide range of evidence from across cognitive science suggests that while our own experiences are globally broadcast (thereby becoming conscious) and hence made available to the mindreading system (thus being easily self-attributable), we can only know of our own propositional attitude states via interpretation of sensorily-accessible data. Hence our knowledge of our own propositional attitudes is little different in epistemic status from our beliefs about of the attitudes of other people.
The first section of the tutorial will explain the contrasting approaches, and will develop the interpretive account, explaining how it is consistent with global broadcasting architectures and with current models of working memory. The second section will seek to explain the intuition of immediate access that underlies philosophical accounts, arguing that this results from a simplifying heuristic built into the structure of the mindreading faculty. The third section will examine evidence on meta-memory and meta-reasoning that bears on the debate, and will discuss evidence from schizophrenia, autism, and brain imaging that is alleged to show a dissociation between the mechanisms of self-knowledge and other-knowledge. Finally, the fourth section will look at evidence that people often make confabulatory claims about their own current attitudes, discussing how this seems to strongly support the self-interpretive account.


それから、もう一つ企画した、土谷とのチュートリアルではクオリアを神経科学として研究するためにどう定義すべきかという、今まさに論文を書きつつある新しいアイデアについて説明する。

TUTORIAL 6: “Towards the neuroscientific definition and empirical investigation of Qualia.”

  • Naotsugu Tsuchiya (RIKEN, BSI)
  • Ryota Kanai (UCL, UK)

Finding the neuronal correlates of consciousness (the NCC) has become a central issue in cognitive neuroscience.   However, the definition of the key word, "qualia", remains elusive, and even researchers within the same field use “qualia” in many different ways, to the extent that we cannot answer simple questions such as  "whether percepts of faces are qualia?" or “emotion of fear a quale?”  Here, we offer a possible definition of “qualia” by considering what are irreducible units of perception from a neuroscientific point of view.    We propose that whether a percept should be considered as a single quale or compound of qualia hinges on whether the percept requires top-down attention for binding or not. Our hypothesis predicts that “qualia” emerge from neuronal circuits that bind elements of percept via genetically instructed wiring or via rewiring through extensive learning. Chunked qualia can be bound flexibly via top-down attention, yet this is just a combination of qualia, which needs to be distinguished from genuine qualia.  We believe the effort to make a clearer consensus of what qualia are could lead to a surge of neuroscientific investigation of consciousness, based on an analogy with researches on ‘elementary features’ following the proposal of Feature Integration Theory by Anne Treisman.   We propose that our new hypothesis will facilitate empirical research into qualia by illuminating more focused issues directly relevant to the Hard Problem.


「赤の赤らしさ」などという説明で、クオリアという言葉自体が分かった気になって、そしてハードプロブレムに気づいて、行き詰まってしまうという状況が良くある。しかし、クオリアについて「顔はクオリアか?」とか、「右半分が緑で、左半分が赤の円という複雑な組み合わせのクオリアはあるか?」などを判断する基準は今のところ存在しない。このチュートリアルでは、クオリアをirreducibility(これ以上細分化できないということ)などの特徴から、神経科学として研究を進める上で意味のある定義の仕方を提案する。「神経科学として」というのは、単にセマンティック(言葉の定義だけの)問題を扱うのではなくて、クオリアとが脳のどのような状態(情報処理)に対応するのかを研究できるようにしたいからだ。クオリアの特徴と実験手法を対応付けることで、クオリアを科学として扱うことはできる。このチュートリアルで話す内容は、かなり賛否両論の意見が返ってくるのではないかと期待している。

この前のASCONEで下條さんも強く主張していたことだけれど、クオリアというのは難問すぎるとして諦められがちだが、突き崩すとっかかりみたいなものは、クレバーなアイデアさえあれば、新しいことがまだまだ見つけられる。

きっと、provocativeな(人を怒らせて、物儀をかもすような)内容になるので、どしどし参加してください。


最後に、ASSもう一つ進行中のメタ認知の企画あるのだけれど、まだ詳細が決定していないので、決まり次第報告します。

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東北大学からUCLへの若手派遣事業

僕の所属しているUCLには高次脳機能の研究において、第一流の研究室が多分野にわたって数多くあります。非常に脳研究者の層が厚く集中しているので、脳に興味がある人にとっては、一度は体験してみたい場所ではないでしょうか。3年前、僕がUCLに来たときには、たくさん脳研究のラボがあることは理解していたものの、実際に来てみると、想像以上で圧倒されました。

先日、ASCONEという日本での若手研究者に向けての研究会で東北大学を訪れたときに、東北大学とUCLの間で、若手派遣事業が行われていることを教えてもらいました。今回は、その若手派遣事業について、興味のある人に、UCLで一年ぐらい研究するチャンスがあるということを知らせたくて、そのことをブログに書こうと思いました。

この制度は、東北大学とUCL間での研究交流を深めるために、現在東北大学の生命・医学・加齢医学研究所のいずれかに所属している学生・ポスドクのUCLへの留学を支援しています。期間は、最低1年程度です。例えば、大学院の博士課程を終える段階に来ている人が、ポスドクへの遷移期間として活用するのには、非常に有効だと思います。

UCLでどのような研究が行われているかは、このUCL Neuroscienceのサイトで包括的に見ることができます。ただ、UCLでの脳科学研究の規模は非常に大きいので、すべてのラボを見るのはなかなか難しいかもしれません。僕の良く知っている分野で、人間の脳機能をイメージングや非侵襲脳刺激を用いて研究しているは、Wellcome Trust for Neuroimaging (通称FIL)とInstitute of Cognitive Neuroscience、それからPsychology and Language SciencesSobell Instiuteなどがあります。それから、脳の計算理論の方では、Gatsby Computational Neuroscience Uniteもあります。それぞれが、常にものすごくプロダクティブで、世界をリードする研究をしています。

ロンドンの中心部の小さな地域のなかに、層が厚い脳研究者が集中しているので、常に他分野の脳科学者と交流があって、毎日が刺激的です。今回の、若手派遣事業は非常に良い機会なので、今回のような制度を活かして、UCLに留学する人が日本から出てくるのを楽しみにしています。

興味のある方は、1月に東北大学とUCLの合同シンポジウム、脳科学国際シンポジウム2011にてUCLの大沼先生と山本先生による説明があるので、それに参加されるのも良いと思います。もし、特定のラボの様子などについて聞きたいことがある人は、直接メールを頂ければ、多少のアドバイスはできると思うので、kanair[at]gmail.comまでメールをください。

また、このブログをみて、自分の知り合いなどが若手派遣事業の対象となり且つ、興味がありそうでしたら、是非伝えておいてください。

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ASCONE終了

最近まで東北大学で行われたASCONEという大学生・院生の若手を鍛える合宿で講師をしてきた。

http://spike.lab.tamagawa.ac.jp/ASCONE/

講師の人はそれぞれ、難しい課題を与えていたけれど、それなりの議論ができるレベルまで達している学生がたくさんいて楽しかった。最後には、下條さんがクオリアの話をして、それもかなり面白かった。藤井さんにも初めて会ったし、土谷は相変わらず強気でおもしろかった。4日間びっちりやったおかげで、参加した学生はけっこう意識研究の基礎はつかんでいたようだ。

きっと今回の参加者と将来どっかの学会で会うことはあるだろう。そして、その中には日本を代表する意識研究者がでてくるだろうという予感を感じた。自分の気持ちとしては、自分はまだまだ挑戦者なのだけど、これから研究を始める人に教える立場にもなりつつあるんだなという感覚が生まれた。

土谷が3月にユタで行われるCosyneという学会でオーガナイズしているワークショップがこのテーマについて学ぶのに最も良い機会だろう。Christof Koch, Giulio Tononi, Stan Dehaene, Alex Maier, Nao Tsuchiya, Anil SethがComputational approaches to consciousnessというテーマで議論する。これはすごそうだ。

神経回路学会ということだったので、もう少し意識の計算理論についての講義があっても良かったかもしれない。今回みたいに、まず意識研究の概念の整理をやったあとで、より計算論的な話にまで発展できればより良かっただろう。TononiにInformation Integration Theoryとかちゃんと理解して、研究している日本人というのは今のところいない。これは、非常にもったいない。数学が得意で、脳や意識に興味がある人は、情報理論からのアプローチで一旗あげて欲しい。

ASCONEについては、書きたいことはいろいろあるが、興味のある人はtogetterのASCONE2010関連、あるいはこのリンクを参考にしてください。

ASCONEで良いと思ったのは、議論する時間をたっぷりとっていることだ。たぶん、こんなに人と議論することで勉強するって機会は日本では特に珍しいだろう。ただ将来的に、こういうことが英語でできるようなトレーニングも必要だと感じた。

最初は準備も大変だし、日本に行くのだけでも遠いから大変だと思ったけど、やる気のある学生にいっぱいあえてやりがいがあって楽しかった。

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ソーシャルメディア時代の新しい知性

ネットによって、あらゆるスピードがあがりすぎて、常に忙しい環境にいるのは自分だけではないはずだ。

ここ5年ぐらいの間に、ネット経由での情報が多すぎて、これに対応して仕事の効率やアイデアの創成にどう役立てていくかというのは、個人的なテーマでもあるし、脳科学としても面白いテーマだと感じていた。

それで新しいタイプの天才が生まれるだろうとか、情報過多がイノベーションを引き起こすきっかけになるのではないかとか考えてきた。

過去の関連エントリー:

なぜ人は忙しくなったのか

情報過多、

NIH VideoCasting

それでも、最近の風潮は今のソーシャルメディアによってもたらされる情報量は、脳に良くないのではないかと言う人が増えてきている。そういう主張をしているのは、特にNicholas CarrとSusan Greenfieldはネット有害説の主唱者だが、自分としては少し懐疑的にこの風潮を見ている。

The Shallows: What the Internet Is Doing to Our Brains Book The Shallows: What the Internet Is Doing to Our Brains

著者:Nicholas Carr
販売元:W W Norton & Co Inc
Amazon.co.jpで詳細を確認する

http://www.youtube.com/watch?v=pS_FwVI7Si4

このNicholas Carrの本は、今のネットの風潮では、じっくり文章を読むことが少なくなって、じっくり考えることができないぐらい脳に影響を与えていると主張している。でも、これは怪しいと思う。この本のレヴューでニューヨークタイムズは、ソクラテスは本が記憶力を悪くすると危惧していたという話で始まる(http://nyti.ms/9ff7vs)。この解釈はすごく納得する。新しいテクノロジーがでてくると、それが人間に与える影響について心配するというのは、人間の心理だ。しかし、むしろ我々は新しいテクノロジーとどう付き合っていくかを考えるべきで、歴史的な事実として、常に新しいテクノロジーに順応してきた。

Susan Greenfieldの意見も、似たような感じだ。(ガーディアンの記事)。

しかし、こういった意見には未だに脳科学としてデータが不十分だ。ソーシャルメディアが脳に与える影響をちゃんと調べてから、善悪の判断をしたらいい。注目には値するテーマだけれど、善悪の判断ができるほどデータがないというのが本当だろう。

それから、注意力がなくなって、気が散りやすいというのは必ずしも悪いことではない。むしろ、知識や記憶力が知性の要でなくなってくることで、人間はよりクリエイティブなことに専念できるかもしれない.

Carson et al. (2003). J. Pers. Soc. Psychol. の論文では、気が散りやすい方がクリエイティビティーが高いということを示している。ただし、IQがそもそも高くないと気が散りやすいだけで、意味がないけど、いろんな分野にまたがる知識を好奇心をもって吸収して、新しい物語を想像するというのは、科学者に限らず今後重要になってくるクオリティーだろう。人間は物語性に惹かれて価値を感じる。新しいウェブ時代のリーダーにとって、興味深い物語を創造する力は不可欠だろう。

そこで、気になるのは、今の時代子供たちに何を教えるべきかということだ。記憶をベースにした教育の重要性は減っていくかもしれない。心理学で教育は特殊な問題だと思う。学習や発達などの事実について心理学は膨大なデータを蓄積してきた。しかし、教育を考えると、何が子供のためになるのかという善悪の判断が入る。この部分は、大人たちの先見の明と、善悪という哲学の問題が入ってくる。

それから、今のネット経由の情報の収集の律速条件が、文章を読む早さになっている。読むという行為は、人間にとって比較的新しい能力だから、効率にはかなり個人差があるだろう。だからといって、速読ができればいいのかというと分からない。この面では、人間同士のコミュニケーションのスピードをテクストベースから、もっと直接的なものに移行するようなことも起きるかもしれない。少なくとも、映像の占める割合は増えている。

ちょっと今考えてるのは、来年当たりこの問題について発言している人たちを集めて、イギリスで、ネットと脳と教育っていうテーマでディスカッションをやりたい。そのためにも、まずは推測ではない、本当の脳のデータが必要だと思う。

それから、Sir Ken Ronbinsonだったら、ソーシャルメディア時代の教育について、きっと面白いことをいいそうだ。だれかインタヴューしてくれないかな。

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Neuro2010終了。

神戸でのNeuro2010が終わった。

今回、「個人差の認知神経科学」と銘打ってシンポジウムを開くのに、なかなか緊張していて、無事終了してほっとした。

シンポジウムに来てくださった皆さん、どうもありがとう。

シンポジウムの最後にディスカッションを設けたが、これがどうなるのか一番不安だった。自分たちのシンポジウムは最終日だったけれど、それまでのシンポジウムとか講演では、質問する人がすごく少なくて、自分たちのときも同じかと想像して心配していた。なんといっても、質問とか議論の火種をつくるひとがいないとディスカッションは面白くならない。英語でやっているというのもあるかもしれないが、日本では質問するときに、自分が他人から見たら恥ずかしいことを質問しているのではないかということを心配しまうようだ。でも、科学の議論ではあまりそういうのは気にしなくていいと思う。

心配をしていたものの、自分たちのシンポジウムではわりと質問をしてくれる人がいて良かった。質問が、あまりなかったら、自作自演の質問か、オーディエンスの中にいるひとを指名しようかと思っていた(実際、自分のトークの後、山岸さんを指名した)。

まあ、それでも土谷が良く質問してくれた。その中で、個人差研究一般とって、特に重要な問題提起あったが、その場で的確な答えを出すことはできなかった。シンポジウムの帰り道、いろいろ話したから、最初の質問自体は記憶の中で曖昧になってきたけど、要はこういうことだ。

「個人差の研究は、自分を理解したいという、脳科学を始める動機に対する直接的なアプローチにはなっているけれど、脳の仕組みの一般的なメカニズムを知るという目的で、ニューロサイエンスをやっている人の興味を引くほどのものにならないのではないか。」

電気生理学的な手法などで、機能がどのように実現されていて、脳が実際にどのような計算原理に基づいて成り立っているのかを追求するという立場では、あまり脳の構造の個人差を見ても意味がなさそうだというのは分かる。

でも、シンポジウムの目的の一つは、「個人差研究は、特殊な例を理解することではなくて、脳の一般的な理解へのアプローチである」ということを説明することだった。たぶん、これは自分で個人差研究をすることで感じるようになったことだが、他人に納得のいくように説明するのは難しい。

それで、説得力が一番あったアナロジーが「ハエの行動遺伝学」だ。ミュータントを引き起こしたハエを、行動をもとにスクリーニングをすることで、個性のあるハエと遺伝子の関係がわかる。つまり、特定の遺伝子と、なんらかの行動の異常が結びつく例がたくさんある。さらに発見された特定の遺伝子とハエの行動の関係を理解するには、遺伝子を見つけたあとで、行動中の神経活動を測ったり、生理学的な研究が必要だろう。それでも、ハエの遺伝子がなんらかの行動と関与していることがわかることの研究的強さは実証済みだ。

自分がやろうとしている脳構造と個人差をつなぐ研究は、遺伝子と経験(Nature & Nurture)の複合体としての脳構造と人間の行動を繋ぐのが目的だ。人間は遺伝子の数も多いし、MRIで見れる画像は荒いが、遺伝子自体よりも、より直接的に行動との相関関係を見つけられる可能性もある。それは、脳の構造が遺伝子だけでなく、その後の経験によって変化するからだ。まあ、とうぜんヒトの遺伝子をとるのも技術的には簡単なことだから、今後はMRI画像と組み合わせてデータを取っていく。

そんなことを考えながら電車で読んでいた小説に、似たような話がでてきて驚いた。

プラチナデータ プラチナデータ

著者:東野 圭吾
販売元:幻冬舎
発売日:2010/07/01
Amazon.co.jpで詳細を確認する

このミステリー小説では、殺人現場などから犯人のDNAを検出すると、それだけで犯人の身長や性別だけでなく、顔や性格までを、高い精度で予測するシステムというのが開発される。現在、遺伝子だけで人間の特徴がどこまで予測できるのかは定かではないが、自分のやろうとしていることは、これのMRIバージョンなんだなと思った。MRIだったら、殺人現場でDNAのようにとれるものではないが、生物的特徴から、人間を予想するというところは完全に同じだ。

そして、この小説の最後に、そのDNAのシステムの開発者に対して、人間は遺伝子だけで決まるのではなく、化学的・電気的な信号で成り立っているという話をする人が現れる。この小説の本筋とは関係ないことだけど、この「構造」対「生理」という構図は先の話と同じだなと思う。

自分がやっている構造MRIだけで、どこまで一人の人間がわかるかというのは、精度に関しては未だにわからない。DNAのようにその辺に落ちてはいないから、犯罪の捜査にも役に立たなそうだけど、応用脳科学としてのポテンシャルが大きいところも面白い。

ちなみに、このプラチナデータ にでてくる、「電トリ」という装置は脳に電流を流して快楽をもたらすという、tDCSを彷彿させる代物で気になった。tDCSをすぐにそういう使い方することはできなそうだけど、一般の人にあまり悪いイメージもたれても困るよな。


 

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社会性と意識の研究がつながった!!

先週、とてつもなくおもしろい論文がサイエンス誌に出た。残念ながら、自分の論文ではない。

Bahrami et al. (2010) Optimally interacting minds. Science 329, 1081-1085.

アブストラクト
In everyday life, many people believe that two heads are better than one. Our ability to solve problems together appears to be fundamental to the current dominance and future survival of the human species. But are two heads really better than one? We addressed this question in the context of a collective low-level perceptual decision-making task. For two observers of nearly equal visual sensitivity, two heads were definitely better than one, provided they were given the opportunity to communicate freely, even in the absence of any feedback about decision outcomes. But for observers with very different visual sensitivities, two heads were actually worse than the better one. These seemingly discrepant patterns of group behavior can be explained by a model in which two heads are Bayes optimal under the assumption that individuals accurately communicate their level of confidence on every trial.

どういう研究かというと、Visual Searchの課題を二人でやるSocial Psychophysicsで、被験者の二人が話し合うことで、情報をベイジアンに統合することがでるということが実証された。さらに、二人の能力を統合すると、個人の最大の能力を上回る結果をだすこともできる。

同じような統計的なモデルは、クロスモーダル(聴覚と視覚など)の1つの脳の中での情報の統合などに用いられてきたが、複数の脳内の信号が、人間同士のコミュニケーションによって統合可能であるということが示された。

この研究は、さらに突っ込んだことを検証していて、被験者同士が自分の試行ごとの確信度を相手に正確に伝えることが重要だということを明らかにした。

この論文を読んだだけでは、すぐに気づかないかもしれないが、これは意識と社会的コミュニケーションをつなぐ重要な発見だ。賛否両論あるかもしれないが、自分の知覚に関する確信度を正確に見積もるというのは、メタ認知であり意識的知覚の重要な要素である。タイプ2課題で意識的知覚の有無を評価するという立場からは、確信度が正確に評価できることが意識の操作的定義となっているからだ。

他者に自己の内面をコミュニケートすることは、意識的知覚のもたらす機能的側面であると考えられる。これまで、何のための意識で、何のためのメタ認知なのかということを機能的側面から考えた例は少ない。この社会性と意識研究のリンクができたことは、すごくエキサイティングなことだ。

「意識は他者とコミュニケーションを可能にする」

これまで、なんとなく社会性と意識の研究につながりを感じていた人はいるのではないだろうか。少なくとも、脳の機能を、「何のために」という目的から考えていくと、社会性の問題が気になっていた人は、自分以外にもいるだろう。でも、これを具体的にどういう場面で、意識と社会性が繋がるのかということを具体的に議論した例は知らない。

実は、このBahadorの研究は『個性のわかる脳科学』 を書いたときにはすでに知っていたが、未発表だったために書くことができなかった。この研究を含め、いくつかの未発表の研究のおかげで、自分の中で社会性と意識研究が繋がったのは、ちょうどそのときだった。その文脈でPrecuneusのこと(過去のエントリーを参照)も気になっていた。また、タイプ2課題が、ソーシャルな文脈で使えることなど、関連したことを書くに留めておいた。それでも、一つずつ関連論文が公になっていくことで、少しずつ自分の考えていることが、より深く書けるようになってきた。

BahadorはかなりUCLで信頼しているコラボレーターの一人で、いつも話すとおもしろい。このサイエンスの論文でも、最後の文章とかよくぞ書いたと思えるようなアイロニーたっぷりの文章でおもしろい。この論文がサイエンスにでたことは、すごくうらやましいと同時に嬉しい。

この意識との関連とは別の社会的な文脈で、Scientific Americanにコメントを書いた。英語版しかないけれど、興味のある人は参考にしてください。

Are Two Heads Better Than One? It Depends (Scientific American)

ちなみに、こういう英語で一般向けの記事を書くのは、普通の論文を書くよりも英語がネイティブでないことのハンディを感じる。でも、こういうのをもっとさらっと書けるようになりたい。

それから、最近「メタ認知」が意識研究にすごく重要な意味を持っているとつくづく感じる。来年の京都でのASSCにシンポジウムとして提案してみようかと思う。まあ、通るかはわからないけど、タイムリーでいろんな分野の人が興味を持つだろう。

 

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個人差の論文:1号

この前の、『個性のわかる脳科学』で一番メインのテーマとして書いたことだけど、自分の今の興味は、脳の構造をみるだけで、どこまで個人の性格や能力が予測できるかということだ。

その本を書いたときには当然、どっぷりその世界に浸かって研究をしていたわけだけど、自分の研究内容が未発表であったために含めることができなかった。それが非常に歯がゆかったのだけど、脳の構造シリーズの論文の一つ目が今日オンラインで出た。

Kanai, R., Bahrami, B. & Rees, G (2010) Human parietal cortex predicts individual differences in perceptual rivalry. Current Biology.

何と言っても、こういう個人差を扱う場合には、たくさんMRIスキャンをしないとならない。この論文では50人程度だが、3号、4号あたりになる論文では200人ぐらいになっている。そうとう週末ずっとスキャンしっぱなしの日々が思い出される。

それから、この論文がただの脳構造解析で終わってないと思うのは、構造から知覚の個人差と関係あると予想された場所に、脳刺激を加えたことだ。構造の解析だと、単に相関でしか見えないが、本当にその知覚と関係あるのかどうかをTMSで確認できれば、かなり確信がもてる。これは、これまでの構造解析の弱さを補完する重要な要素だろう。これをやったことで、この研究は自分でも気に入っている(だから、その分他の雑誌に落とされた時は、がっかりした)。

今回の論文はこのイリュージョンと関係がある。

Spinning

こういう映像をみていると、時計回りに回ったり、反対周りになったりする。この知覚の変化は脳の中でおきているのだけど、未だにこの切り替わる仕組みはよくわからない。不思議なことに、この知覚の変化が起きやすい人とそうでない人がいて、「躁鬱病」や「IQ」なんかと関係があると言われていた。だから、このような知覚の主観的な入れ替わりの個人差は、脳の中の注意の切り替えのような部位の発達度合いの違いを表しているのではないかというアイデアを試した。

それで、今回の研究で、こういう刺激をみて知覚の変化が良く起きる人は、頭頂葉の一部が大きいということがわかった。

今までこういう心理実験をしてても、個人差はあまり気にしていなかったけど、ちょっとした実験で脳の特定の部位の大きさがわかるというのはすごく興奮する。

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なぜ人は忙しくなったのか

どうもここ数年、途方もなく忙しい。人間のことならどんなことでも、認知科学的な視点で研究できると考えているから、「忙しさ」というのもなんらかの考察を加えることはできるのではないかと思っていた。

まず、どういう視点で考えるかということから既に問題だけれど、少なくとも二つの要素がある。一つは、「主観的忙しさ」とcognitive loadという観点で、複数の課題を並列に与えられると、課題をひとつずつこなしているときよりも忙しいと感じてしまうようだ。このいかにも普通な認知神経科学的な見方では、タスクスイッチングや複数の長期的な課題を脳内に保持しておくという、「忙しさ」を感じるメカニズム的なことの研究に進みそうだ。これは、それほど面白くないありきたりな研究だろう。それから、なぜネットによって人が忙しくなったのか(これが実際にそうであるという前提のもとに)という疑問に対する答えは、ここからは出てこない。

もう一つの見方は、ソーシャルネットワーク的な見方で、これがけっこう面白い。

前に紹介したRobin Dunbarという人のアイデアで、人間の持てる友達(プラス知人)の数は、人間の脳のキャパシティーからして150人程度だろうと言われている。この話自体は有名な話だが、実はこれには続きがある(Dunbar 1993参照)。霊長類の種ごとのソーシャルネットワークのサイズは、その種の個体がグルーミング(毛繕い)に費やす時間に比例するという話だ。そして、Dunbarの主張では、人間の持つソーシャルネットワークのサイズを維持するためには、人間は起きて活動している間は常にグルーミングをしていなければならないだろうといっている。しかし、そうならないのは、人間は言語獲得によって、「1対1」のグルーミングよりも効率的に、言葉によって「1対多」のグルーミングをしているとDunbarは説明している。さらに、Dunbarは、人間のネットワークの大きさを保つために、人は一度に2.76人を相手に会話をしているだろうと予測している。また、大学の食堂などからデータを集め、だいたいこの予想が正しいということも確認している。これが、150人の人と、お互いを知り合いとして認識し合うだけの、人間関係を保つのに必要な、コミュニケーションの量だという見積もりだ。

それから、2、3人と同時に話すのが、人間が進化の過程で身に付けた自然な行為だというのは日常的に実感できる。実際にレストランなどに大人数でいっても、結局は小さなグループ(3〜4人)に分かれて、それぞれ別の話をしている。ラボミーティングでも、学会中でも、人の輪ができているのを観察すると、たいてい小さなグループに分かれていく。それから、物理的に声の大きさと、人間同士の距離の関係からも、2、3人相手に話すのが、お互いに無理をせずに話ができる限界だろう。ちなみに、大きなグループの中で3人以上の人を相手に話をするのが上手い人というのもいる。こういう人は何らかの才能があるのだろう。こういう人の脳はどこが違うのかも調べたい。

ものすごくたくさんの人と、弱いつながりを保つのは、一日中たくさんの人と話し続けなければいけなくなるだろうが、Facebookなどのソーシャルメディアでは、かなりの人が現実的とは思えないほどたくさんの「友達」を維持している。特に、英語圏では若い人程、Facebook friendの数は多く、500人を超えていても、それほど多いとは言えない。しかも、Facebookで友達に加えられている人の、95%以上は実世界でなんらかの関わりを持った人だというデータもある。だから、まったくの知らない人を「友達」として維持しているのではなくて、昔だったら、一度だけ出会って忘れてしまうようなひとを、ショーケース的に集めているのが実際の状況のようだ。

Dunbar数の話がネット上のソーシャルメディアとうまくあわないことから、なんでFacebookではこんなにたくさんの関係を保つことが可能なのかと気になっていた。そして、「1対多」のコミュニケーションの「多」の方が2〜3人ではなくて、100人とか500人とか、数万人ということが可能になっているからではないかということに気づいた。一人が自分の状況をTwitterなどでたくさんの人に向けて発信することで、その人はたくさんの人と関係を保つことができる。

その代償として、誰もが忙しくなる。発信する労力は、それほど2〜3人を相手に話をするのと違いはない。そのかわり、今まで聞き手としての自分が、2〜3人からしか同時に聞いていなかったのが、一気に数百人になる。これは聖徳太子でも無理だろう。聖徳太子のような人はよりたくさんの人と友達になって、Facebookでも友達が数千人いてもおかしくないが、それでも、ものすごく「忙しい気分」になるのではないだろうか。(ちなみに、神様がfacebookに登録しているか探したけれど、でてこなかった。ちなみに、fanにはなれる。)

根本的に、ネットがあることで無限にアクセスできる情報があるということよりも、ソーシャルに入ってくる情報が、過去の数十倍、数百倍になったということが、忙しくなる元凶ではないか。ソーシャルメディアに限らず、単にメールでも送られてくる量が異常に増えた。単に情報が増えただけでは、忙しくはならない。図書館にたくさん本があるからといって、それがすべて読み切れないと忙しがっている人はいないだろう。むしろ、他人との関係の中で入ってきた情報には忙しくさせられるようだ。単純な質問でも、すべて答えられない量になりつつあるし、調べてから答えるから時間もかかる。面白いと教えられた論文や本や雑誌の記事も無限にあるが、これも自分が知的に信頼する人から来た場合には、とりあえず読んでみようということになる。そして、学生や他の研究者を紹介されることもある。自分の知っている人を経由して入ってきたものには、時間が取られることが多い。

この「1対多」が2〜3人ですまなくなったというのが、どうも本質的に人間のキャパシティーを超えてしまう原因のように思える。その反面、自分の興味のあることを教えてくれるひとがたくさんいるのはありがたい。

 

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「分類することの難しさ」と「リンク・コミュニティー」

数日前まで台湾のAPCVという視覚の学会に行っていた。

例によって飛行機で気になる本を読んでいた(最近、学会の内容をブログで書かなくなってきた)。

今回読んだ本はDavid Weinbergerの Everything Is Miscellaneousという本。

Everything Is Miscellaneous: The Power of the New Digital Disorder Book Everything Is Miscellaneous: The Power of the New Digital Disorder

著者:David Weinberger
販売元:Times Books
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ネットでソーシャルタギング的なものなどが、どのようにこれまでの情報の分類のしかたと異なるものかを長々と力説している。ネットの社会や人間の行動への影響に興味を持っている人にはもはや古ぼけてみえるかもしれない。

最初に本の分類の歴史の話がでてくる。最初に図書館でジャンルごとに本を分類した話で、いかに通常の階層的なまとめ方がうまくいかないか、そして物理的な制約からそうならざるをえなかったかなどが書かれている。どういうことかというと、例えば、歴史というジャンルと哲学というジャンルがあったら、哲学の歴史の本はどっちにいれるべきかみたいな問題。

それが情報社会においてはメタデータを管理することで、哲学で調べても、歴史で調べても同じ本にたどり着くような仕組みを作ることができる。(簡単に言うと、本を並べる代わりに、哲学の本リストと、歴史の本リストをつくって別においておけばよいということ)。

このメタデータを作るということが、二段階目の分類のやりかたで、さらに三段階目でパソコンやネットを使うことでもっと柔軟性が上がったという話。

この話自体は今では当たり前の話になっているだろうから、別段新しくない。しかも、なんだかんだで話が全然すすまないから速読の練習にちょうどいいような本だった。でも、初めてこういう話をに触れる人には、それなりに面白いかもしれない。

でも、この本を読んでいて二つの面白いことに気づいた。一つ目はダーウィンの話。生物で「種とは何か」を厳密に定義するのは難しい。いまのところ、子孫を残せるかどうかが二つの動物が同種かどうかを区別する定義だと一般的には考えられている。でも、ウィキペディアで見ただけでも、定義の仕方はいろいろある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE_%28%E5%88%86%E9%A1%9E%E5%AD%A6%29

種の定義についてダーウィンは面白いことを言っている。いろいろな種の定義があるが、ダーウィンは「種」という概念を厳密に定義するのは難しいということだ。むしろ、厳密に種を定義しようとすること自体が不毛であると主張しているようにもとれる。

クリストフ・コッホが 『意識の探求』 で、今の時点では意識を厳密に定義する必要はないと書いているが、未だに意識の研究をするというと、「意識は厳密に定義できないから、まともな研究ができないでしょう」と言う人に出会う。少しはそういうことを主張する人の理屈もわからないことはないが、またそこから話を始めるのは最近は面倒になってきた。過去の経験から、そういうことを言う人は本気で意識を研究しようという気持ちがそもそもないことが多くて、まじめに議論しても建設的な話にならないことが多いからだ。(ただし、新しい定義を提案して、見方を建設的な方向に変換しようとう行為には好感がもてる。)

そんな中で、ダーウィンが敢えて「種」を厳密に定義することにこだわらなかったという歴史的事実は注目に値する。

それからもう一つ、ちょうど面白いタイミングで現れたのが Ahn, Bagrow & LehmannのNatureの論文。

この論文では、これまでネットワークの中でノードをグループに分類しようとすると、一つのノードが複数のグループに所属しているせいで、うまく分類できなかったが、それ克服するネットワークの解析方法を報告している。

実際にどうやるのかというと、ノードを分類するのではなくて、ノード間をつなぐリンクの集合を分類することで、「コミュニティー」という単位に分けるというやり方だ。

これはもしかしたら画期的なことではないか。なんというか、David Weinbergerの本で書いてあった、分類の難しさの歴史と照らし合わせてみると、その難しさをかなり概念的なレベルで解消する方法を提案しているようだ。さっきの本の分類の例では、本自体を分けるのではなくて、一つの本がどのようなキーワードと関わっているかの相対的なグラフから分類する。

さっそく自分でも脳のネットワークなどに同じ解析をかけたらどんな結果がでるかなどを試してみたが、まあそれなりに意味ありげなコミュニティがを見ることができる(これはきっといろいろな人がすぐに試しだだろう)。ちなみに、PrecuneouやACCのようなハブになっているところがトップレベルで出てくるのは期待通りだった。

これは極単純に応用しただけだけど、同じ発想で多次元の複数のチャネル間のリンクをみるような、脳の多次元データを扱う解析で役に立つことがあるのではないかと思う。

それから、このような解析方法はソーシャルネットワークの研究で、Dunbarなどのアプローチの根本的な問題の解消にもつながるのではないか。Dunbarのもたらした概念は、主に同心円的な社会構成に基づいている。つまり、自分の身の回りに特別親しい人のネットワークがあり、その基準を下げていくことで、同心円的により大きなネットワークが見えてくるということだ。ただ、いつも納得がいかなかったことは、軍隊や店の構成員のユニットなどが100〜150人というDunbarの制限があるという例はたくさんあるが、軍隊なんかだと、その中の人たちの他に、学生時代の友達とか、親戚とか、個人が複数のコミュニティーに属しているから、合計はDunbarの数を超えるだろうと前から思っていた。それでDunbar数はこじつけのように感じていた。おそらく、個人がいくつのことなるコミュニティに属しているか、それぞれのコミュニティーの大きさはどれくらいか、コミュニティーへのリンクの数はいくつかなどで、もっと意味のあるネットワーク解析が可能になるだろう。

そんなんで、この一見古ぼけた分類の話の本は、自分の最近の興味とうまく繋がって面白く読めた。



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Subjective Discriminability of Invisibility

久しぶりに論文がでた。自分ではものすごく重要だと思う内容だけど、ずいぶんいろんな雑誌に落とされて、最終的にはConsciousness & Cognitionというとこでin pressの状態になった。

これがその論文。
Kanai_ConsCogn_SDI.pdf.zipをダウンロード

どういう話かというと、意識の研究をする時に、網膜に刺激が映っていても、意識に上らないような状況を引き起こす方法がいろいろあるけれど、その「みえない」という状況には種類があるのではないかということを信号検出理論のタイプ2課題を改良したSDIという指標で示した。

刺激が見えないときに、それが主観的に刺激が存在しないのと区別がつかない状態なのか、それとも自分で(注意していなかったからなどの理由で)見えなかったことに気づいているかで、主観的に「みえない」状態が区別できる。これは、p-consciousnessがない状態とa-consciousnessがない状態に対応しているのではないかと考えているが、そこまではトークでは言えても、論文では書けなかった。

たぶん、秋にASCONEで講義をするときには、この研究の話とその続きの研究について話そうと思う。けっこうややこしい話でもあるから、詳しい内容に興味があるひとは元の論文を見てください。

今のところ、自分の興味はタイプ2課題に収束してきている。この前、日本で出した本(個性のわかる脳科学)で社会性の脳科学のような内容について書いた。あの本を書いたことは、自分の中の興味を整理するのに役に立った。社会性と意識はまったく無関係の研究テーマのようだけれど、タイプ2課題というかメタ認知的な部分では共通点が多い。この辺のことも、実際に論文が出始めてくれると、公表できるようになるだろう。

脳の部位的には、Precuneusが非常に気になる。Cavanna & Timble (2006) のprecuneusのレヴューを見ると、この部位が「自己と他」や「共感」などの社会的な能力に関わる一方で、意識にも重要であることがわかる。このレヴューだけみると、何をやっているかよくわからない脳部位だという印象かもしれないが、自分のなかで「社会性」と「意識」に共通項が見つけられた気がする。総合的に見るとPrecuneusは「内省」のような機能を果たしているように思える。この部位がもつメタ認知的に自己の知覚内容や認知能力を捉えるという機能は、タイプ2課題で測られるアウェアネスで、意識にも社会的コミュニケーションの両方の基盤となっているのではないか。

もしサルでPrecuneusを取り除いたら、V1があっても知覚のメタ認知ができないというblindsightと同じ状況になるんじゃないだろうか。

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«ASCONE2010「脳科学への数理的アプローチ」