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ASSCが終わってから考えたこと

ASSCが終わってから、考えさせられるテーマがいくつか残った。

特に最後のp-consciousnessとa-consciousnessのシンポジウムで、今まで漠然と思っていたことが研究すべきテーマだと感じた。

まず、extinctionとかattentional blinkとかinattentional blindnessのようなattentionの問題でそこにある刺激が見えない場合と、binocular rivalryとかmotion induced blindnessで刺激が見えていない状況がneural mechanismとして違うもので、signal detection theory的な解析で客観的に見えなくなっている状況、つまりsensitivityが下がっていることの原因が違うということを示すべきだと考えた。

inattentionの場合は、absence of awarenessが起きているのに対して、MIBではawareness of absenceが起きている。この違いはconfidence ratingなんかで捉えることができるはずだ。ただ、違う理由として、ターゲットに対してトップダウンの空間的注意が向いているかどうかが鍵かもしれないと考えていたけれど、Wilimzig et al. (2008)の論文は、トップダウンアテンションが実際のパフォーマンスに影響を与えても、主観的なconfidenceにはほとんど影響しないということを示している。その通りかもしれないけど、二つ目の実験をみると少し影響があるようだし、ネガティブデータだからやり方次第ではトップダウンアテンションがconfidenceに影響を与えるような実験もあり得る。いまのところ、orientation discriminationではなくて、present/absentのタスクで見えるか見えないかが課題になっていれば、もしかしたらトップダウンアテンションのconfidenceに与える影響がでるのではないかt予想している。

いま自分がやっている実験では、TMSをIPSに与えることで、Troxler effectが引き起こせるということがわかったのだが、どうもその効果がfadingなのかinattentionなのかを区別するのが難しい。でも、その違いを客観的に示す方法を開発するのは重要なことだと思える。おそらくbinocular rivalryのような状況で見えてないときは、見えていないことにconfidenceが高くなるだろう。ただ、知覚レベルでのconfidenceと認知レベルでのconfidenceを区別する必要はある。たとえばCFSで何も見えていないときは、知覚レベルでみえていないというconfidenceは大きいはずだけれど、何かがsuppressされているかもしれないという知識に基づくconfidenceは別だろう。

いまのところworking hypothesisとして、IPSのようなsuperiorなparietalの部位は知覚の現状維持に関わっていて、fadingを引き起こすが、よりneglectやextinctionと関わるよりinferiorなTPJとかangular gyrusあたりをTMSかtDCSでおさえればinattention的なblindnessが起こせるのではないかと思う。そこをconfidence rating付きで比べたら、質的に異なるblindnessの区別がつくのではないか。それを目指して、とりあえずextinctionの患者で実験をしようと思う。なかなか、患者だと長くて難しい実験ができないというから、それと平行してtheta burstでextinctionを普通の若い被験者で引き起こすことにも挑戦してみる。

本来の厳しい意味でのp-consciousnessとa-consciousnessを考えると、おそらくp-consciousnessは研究できないと思うが、どうもNed Blockの話とか聞いていると、注意が向いていなくても漠然と何かが見えている感覚のことにすり替わっているように思える。それなら当然研究できるし、たぶんそういうものがあると感じるのは、blindnessを起こす方法に、attentionレベルでのabsence of awareness (blindness for a-consciousness)とperceptionレベルでのawareness of absence (blindness for p-consciousness)があるからじゃないかと思う。こう解釈すれば、binocular rivalryはp-consciousnessからすでに消えていて、extinctionはp-consciousnessがありで、a-consciousnessがないといういう解釈になる。

基本的に、p-consciousnessとa-consciousnessは分離可能かみたいな議論は、解釈の仕方が人によって違うから話にけりがつかないんだと思う。

それから、クオリアについても思うところがあった。

ASSCの最終日の次の日に、台湾大学で松沢哲郎氏の講演があった。ASSCでの講演もすごかったが、その次の日のことで印象的な話があった。チンパンジーが、色のパッチをみて何色か答える課題をやっていて、新しい中間的な色(例えば、今まで真っ青な青しか見せていないのに、水色を見せるような状況)をみせると、それを既にしっているカテゴリーに分類するという話だ。色の分類が、言語とか文化に依存するかという文脈ででてくる話であるけれど、なぜかそのとき、これはクオリアの話ではないかと思った。

視覚について言えば、入ってくる情報量は膨大で色とかはほぼ連続的な量をもっている、それをなんとか離散的なシンボルとしてカテゴリー化することで、行動の選択肢を単純化する必要がある。信号の赤が今日は微妙に違うから停まろうかどうか悩んだりしていては、困ってしまう。でも、そのカテゴリー前、pre-categoricalな情報へも当然意識はアクセスできる。だから、微妙な青の質感の違いを分別することができる。ただし、その微妙な違いをもつすべての青には名前がついていない。だから、それそのものを持ってこないと人には説明できないし、知覚には言葉にならない微妙な要素があるように我々は感じているのだろう。それで、「赤の赤らしさ」のような表現がクオリアの説明に用いられているのだろう。この話自体は、なぜクオリアが生まれるのかは説明できないが、どこにクオリアがあるのかを考える上で役に立つはずだ。つまり、クオリアがあるとしたら、pre-categoricalでリッチな情報を持っているかなり初期感覚野で、さらに意識にのぼるところだ。

ASSCではすごく刺激をうけて、やりたい研究のアイデアがたくさんできた。

http://visualcognition.net/

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コメント

拝啓

 青を学習したチンパンジーが、初めて見せられた水色を青のカテゴリーに分類するという実験結果から、カテゴリーとクオリアを結びつけて考察しておられる文章に興味を持ちました。

 実は、私は、クオリアは、もともとは条件反射を可能にする仕組みとして始まったのではないか、と考えております。条件反射は、利害にかかわる(=情動を引き起こす)事象Xを、本来それとは直結しない事象Yによって予知し、事象Xにふさわしい情動をフライング的に起動する仕組みです。池の鯉の場合なら、手を叩く音が事象Y。この事象Yを検出する仕組みが、本来のクオリアではないでしょうか。
 条件反射するとき、事象がYのカテゴリーに属するかどうかだけが重要であって、カテゴリー内の差異に拘ることは、書いておられるとおり、かえって有害です。カテゴリー内の差異は捨象されるので、クオリアは、カテゴリーを代表しつつ個別性のないイデア的性質を帯びる。同時に、クオリアは、それが引き起こす情動とも密接に結びついているので、生々しくもあるのだと思います。このことが、よくいわれるクオリアのつかみどころのなさの原因ではないでしょうか。

 クオリアは、ちょうど免疫のように、経験によってあらかじめ形成されて、いくつも蓄積されているものであり、該当する事象に出会うと、対応するクオリアが起動します。私たちは、実際に起こった個別的一回的な外の事象に直接反応するのではなく、それによって起動される内のクオリアに反応しているのだと思います。そのことをよく示すのが、草むらで古びたロープの切れ端を見たときの反応であり、執着や偏見の原因もこのあたりにあるのではないか、と考えています。

 素人の思いつきで失礼致しました。
新しい発見で私たちの思い込みを壊していただき、人間観を深めるきっかけを与えて頂きたく、益々のご活躍を期待いたします。

敬具
2008,七夕
曽我逸郎

投稿: 曽我逸郎 | 2008年7月 7日 (月) 12時02分

曽我さん

コメントありがとうございます。

僕はクオリアはカテゴリー以前のものだと思っています。元々の自分の興味では、カテゴリーとして捉えたあとの「赤」に意味を与えるものだとクオリアを考えていたのですが、もしかしたらクオリアというのはそのカテゴリーとして収まりきらない情報をもっていると考えるべきではないかと思います。

ただ、カテゴリー化という機能を持つことはクオリアが可能になる条件かもしれません。I am a Strange Loopという本では、そういう主張が書かれています。

情動とつながっているから、クオリアに生々しさがあるという話は同感です。この辺のことも、実験で新たな発見があれば、実のある話ができそうですが、なかなか難しいです。

金井


投稿: 金井 | 2008年7月 8日 (火) 13時36分

 こちらこそコメント頂き、ありがとうございます。
 調子に乗って、もう一度だけ投稿します。

 熱いものに触れたとき、まず反射でぱっと手が引っ込んで、その後で「アツッ」と感じます。下等な動物、おそらくは棘皮動物までは、(アツッとは感じないまま)この反射だけで状況に対応し、生きているのだろうと思います。反射は、感覚器から運動器へと刺激が機械的に伝達されるだけで起こりますから、クオリアは必要ないと想像します。

 反射から一段進化した段階が、おそらく条件反射による対応で、池のコイや人間でも欠神自動症は、これだと思います。
 条件反射は、情動を引き起こす事象を、それに先立つ事象から察知し、ふさわしい情動をいち早く立ち上げることです。そのためには条件となるべき事象を正しくカテゴリーで判別しなければなりません。前に書いたとおり、それがクオリアではないか、と思っています。ですから、ヒトデにはクオリアはないが、池のコイは、手を叩く音のクオリアを感じていると思います。それは単なる手を叩く音に留まるものではなく、餌の匂いや味、殺到する仲間達の動きなど、さまざまな要素が渾然一体になった、えもいわれぬ生々しい興奮させるものでありましょう。口を大きくパクパクさせて押し寄せてくる彼らを思い出すと、間違いないように思えます。

 実験に基づかない、ただの想像にすぎない思いつきで恐縮です。ですが、クオリアと条件反射とは、なにか関係があるのでしょうか? ふたつを結びつけて考えるのは、ピントはずれだとお考えになりますか?

 ご意見お聞かせいただければ幸甚です。

金井様
     2008年7月8日              曽我逸郎

投稿: 曽我逸郎 | 2008年7月 8日 (火) 16時38分

曽我さん

条件反射と刺激に対する反射のレパートリーを学習することが、意識とどう関係しているかということについてある程度の考察はあります。

コッホは『意識の探求』で、意識は新しい入力と出力のパターンを学習するために必要だということを主張しています。それで学習や訓練の後に自動化された行動はほぼ無意識的に起きると考えられます。

条件反射とクオリアが関係あるかというと、クオリアが意識的知覚に付随する現象だと仮定すると、条件反射を新たに学習するのにクオリアが必要だということもできると思います。

そういう意味では条件反射が学習されてしまえば、あまり意識とは関係ないものになってしまいそうなのですが、学習によって新たなクオリアが生まれることもあります。たとえば自分の経験では、英語を勉強し始めてLとRが別物として感じられるようになったときに、Lのクオリアが新たにできたのを感じました。これは、もしかしたカテゴリーの話とつながるかもしれません。

この違いは、行動を引き起こす刺激を学習することと、感覚系(視覚や聴覚)を鍛えて新しいカテゴリーを学ぶという、質的な違いだと思います。

それから情動に関しては、曽我さんの考えている通りで、条件付けに使った刺激の印象(とくに、なんとなくの好きか嫌いか)が、学習後で変わるということが多少知られています。それも一種のクオリアの変化だと考えていいと思います。刺激の持つ意味というのは、脳内での他の情報との関係によって決まるので、その関係性を変化させることでクオリアが変化するのは自然だと思います。

ただ、そのような関係性の中かで定義される意味が、特定のクオリアになるというのはやっぱり大きな謎のままですが、だからこそ面白いのだと思います。

金井

投稿: 金井 | 2008年7月10日 (木) 10時03分

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