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日本の脳科学ブームについて

今、学会に備えて日本に来ている。久しぶりに日本のテレビを見たり、本屋をうろついたりしていると、「脳は本当に日本ではやっているのだな」と感じる。それにともなって脳に関する言動が脳科学者には信じがたいものにさえなっていることに気づいて、なんともいえない気持ちになる。

ことの発端は、時差ぼけで早く目が覚めてしまってみていた番組で、川島隆太が万葉集へのコメントで、感情と数字の関係について話していたこと。あたかも脳科学では事実であるかのように、「数字に関してトレーニングをすることで感情が豊かになる」みたいな話をしていた。この話が完全にウソかどうかは、実証できるかの問題であって、完全に否定できるかはわからないし、もしかしたら本当かもしれない。ただし、数字の知覚がどのように脳では扱われているかについて論文も読んできたが、そんな話はでてきたことがない。少なくとも、脳科学者があたかも事実のように語ることができるような信憑性はない。せいぜい、面白い仮説だから実験で検証してみましょうというのが正しい態度だろう。

もしこのペースで、根拠のない、いい加減な架空の「脳科学の発見」をテレビで発表し続けられたら大問題だ。これまでも、メディアでとりあげられる「脳科学の話」に問題があるという声は、脳科学をやっているひとたちの中ではあった。実際に研究者の中で知られている現象を輸入してきて勝手に自分のものにしてしまうパターンや、根幹は正しいが話を大きくしすぎて正確さに欠くパターンなどが多々ある。そこを批判する人は実際に多いし、それらは真面目な脳科学者の気持ちとしてもっともだと思う。それでも、こういった脳科学の紹介というのは、一般の人に脳科学のハイライトを伝えるという意味では役割があったと思う。「キャプテン翼」が中田英寿を生んだ(CNNのインタヴューでそんなことを答えていた)ような役割を果たしている。潜在的な層の厚さというのは、その国の底力として反映されてくる。そういう意味では、脳科学ブームによって、日本の脳科学者予備軍の層は厚くなっているに違いない。

それから「○○をすると脳が活性化する」という話。なんでその手の話が多いのか。脳に関係なく、体操のお姉さんまでが言うようになっている。100歩ゆずれば確かに○○をしたら脳は活性化しているだろう。でも、何をするのにも脳が活動しなければ行動できないのだから、ほとんど何も言っていないも同然だ。「健康なことをしたら健康です」と同じぐらい意味がない表現だ。でも、「役にたつ脳の話」が求められているという需要から、そうならざるをえないというのは理解できる。研究の現状の話は、一般的にはそこまでおもしろい話にはならないだろうし、事前知識がなければ意味がわからないだろう。それは一般向けとしては必要ではない。何よりも、一般的に役に立つほどの「応用脳科学」的なものがないことが、現在の脳科学の弱さでもある(だからといって科学すべてにそれが必要とされるべきでもない)。ただ、そこへいたる思考の経緯と研究の結果からわかったことの人間観へあたえるおもしろさなどは、専門知識がなくても共有できるものであるはずだ。だから、そこを伝えてほしい。

脳科学の話になると、キャプテン茂木さんがよくでてくるが(茂木さんを「キャプテン」とかなり昔に呼んだのは土谷だが、土谷は遠慮なしにいつもズバリと言い当てる。その後、数年して中田のインタヴューを見て妙に繋がってしまった)、その脳のおもしろさをつたえるということに関してあのひとはそんなに外してないと思う。それからyoutubeで日本のテレビを見て茂木さんが話していると、あまり脳の話をしなくなっている。本屋に立ち並ぶ本のタイトルには無理矢理「脳」が入れられているけれど、基本的には教養のあるひとのエッセイ集のような本が多く、実際面白い。ここぞとばかりに読み切れないほどの出しているから、こちらとしても読み切れないが、『脳と仮想』は面白かった。そこには、ひとつ未だに気になることがさらっと書かれていた。それがもしかしたら茂木さんを社会が必要としていることと関係しているのではないかと思う。

正確なその文章は覚えていないが、こういう内容だった。「テレビが低俗なのではなく、それを見る目が低俗なのである。」といった文章で、見る目を養えば、あるいは自分の中に問題意識をもって物事をみつめれば、その中に自分にとって意味のある内容を見いだすことができるということだ。そもそもクオリアの問題に気づくというのは、そういう過程を要するし、科学全般にもあてはまるだろう。Patrick Haggardという自由意志の脳科学のスターがいるが、Patrickは講演するたびにいつもIan McEwanのAtonementの一部を朗読する。それは、「自分が指を動かそうとしたら指が動くが、動かすことを考えていても動かない。動かそうとして、やっぱりやめることもできる」というあたりまえの用で気がつかない自由意志の不可解さをうまく表現している。『脳と仮想』ででてくるスーパーマリオの話などは、そのAtonementのような、良い視点だと思うし、脳科学はそういうあたりまえの問題意識を出発点にしている。

脳科学はそれを掘り下げていく作業で、実験に翻訳していく作業でもある。よくある茂木さん批判として、その実際の実験に置き換えて新しい事実を発見するという、脳科学のプロフェッショナルはやらなければいけない作業をやっていないということがある。それはそのとおりだと思う。そこはすごく地味な作業ではあるけれど、それをやらなければ絵を描けないデザイナーみたいなものだろう。実際に研究をしているひとには逆のパターンもあって、絵を描く訓練を受けていても面白い絵が書けないということもあるし、具体的な細かい問題に対処する日々のなかで、最初の興味から遠くはなれてしまったような気になることもある。モチベーションの出発点となる疑問の深さと、実験として成立させる手腕の両方の能力があるにこしたことはないだろう。

茂木さんはこれだけ売れてしまっては、なかなか地味な作業をやる機会はないだろう。「いつかやるのかな?」と前は思っていたが、おそらくおもしろい本を書く方に才能があるから、おそらく楽しんでやっているだろうし、個人的にはそれを続けていていいと思う。茂木さんの本は、音楽が心に影響するように、低俗な情報にまみれてた現実の外に一歩抜け出して、凛とした気持ちにしてくれるのではないか。

それはそうと、これだけ脳科学が一般に浸透していながら、実際に脳科学は社会に影響を与えうるものになるのだろうか。現実に影響をもつというのは、製薬会社が生化学のトレーニングを受けた人を必要とするような状況のことだ。最近、広告などで使えるかもしれないという話もでてきてはいるが、脳科学なしでは成り立たないような業種というのは今のところないだろう。脳外科とか医療関係などは具体的な産業的価値があるだろう。「攻殻機動隊」のような世界になれば、脳科学は必須学問になりえるだろうし、脳科学を基にした産業が成立しうる。今のところは技術が及ばないが、それでもデコーディングの分野は発展しつつあるし、日本は強くなる可能性を秘めている。

それでいつも気になってしまうのが、日本の大学にはニューロサイエンスや、認知科学の授業をうける機会が少ないということだ。京大にいたときなんて、三つぐらいしかなかった。独学しようにも、断片を集めたような本ばかりで、信頼できる教科書的なものもさほどなかった。今の脳科学ブームをうけて、脳科学をやりたいと思って大学に入った学生が、良い機会に恵まれて育っていかなければ、非常にもったいない。まあ、なんだかんだで、どういう状況にあっても、やる気がある人はやるし、少々機会がないぐらいであきらめる人はどっちみちやらないというのも本当だと思うが、どうせなら脳科学をちゃんと勉強する機会というのを大学も作っていくべきだろう。

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