無意識のうちに知覚は変化するか?

ここしばらくの間、UCLへいったり、オランダにいったりしていて、なかなかこのブログを書く時間がなかった。UCLの時間についてのワークショップは予想以上に面白かったし、Peter Dayanに初めて会って、圧倒されて感動した。そのうち、そのワークショップで学んだことについても報告したい。

それはともかく、2004年からずっと気になって、いろいろ実験しているテーマがある。それは、binocular rivalryなどの知覚の変化は意識的に見えない刺激に対しても起きているか?という問題だ。

例えば、peripheralでgrating同士のbinocular rivalryを起こして、その傾きがcrowdingやmotion induced blindnessなどの手法で意識に上らないような状況を作る。そうすると、gratingが見えなかったり、刺激の存在はわかっても、傾きがわからない状況というのを作ることができる。そのとき、見えてない刺激同士で競合が起きて、脳内のシグナルとしてはbinocular rivalryが起きているのではないかという仮説だ。

簡単にできそうな実験だけれど、これが大苦戦し続けている。すでに10種類以上の方法でこの仮説をサポートするデータを狙ってだそうとしているが、一つも成功していない。しかも、ひとつひとつの実験はけっこうpsychophysicsとして手間のかかるものだった。

motion induced blindnessやcrowdingの実験では、stabilizationという現象が起きる。どういうことかというと、見えなくなった前後でほとんどの場合、同じ知覚が生じる。つまり、見えていないときに知覚が変化するということはないようだ。

さらに、flash suppressionで強引に知覚を変化させようとしても、いまのところ知覚の変化を引き起こせたことはない。

あまりに、すべての実験でnull resultがでるから、意識的に見えてない刺激ではambiguityは解消されないまま残っているのではないかと今では考え始めている。あと、一つだけ実験をして、それでもうまくいかなければ、あきらめよう。

最後の実験は、50Hzのcounterphase grating同士のbinocular rivalryだ。この刺激は白黒が高速で反転しているから、キャンセルしあって、意識にはのぼらないが、tilt aftereffectなどが起きることから、orientationの情報はある程度のレベルまでとどいていると考えられる。目が動くと見えてしまうが、まったく何も見えない時間が10秒ぐらい続くこともある。これで、rivalryが起きているか調べているが、いまのところvisibilityのコントロールを厳しくtrialごとにやると、やっぱりbinocular rivalryは起きていないというデータが出ている。

もし、binocular rivalryなどの知覚の変化がvisual area内のネットワークの特性だけで説明できる現象なら、意識に上るかどうかに関係なく、競合が起きてbistableになって良さそうだとおもっていたが、どうも意識に上るという過程を経て初めてbistableになっているようだ。そうだとすると、binocular rivalryは単に意識を研究するための道具ではなくて、意識ともっと密に関わっていると考えるべきだろう。どのくらい密かというと、思い切ったことをいうと、binocular rivalryが起きているかどうかが意識があるかどうかの区別と同一だと言うことだ。

もともとは、binocular rivalryが無意識の刺激に起きていることを示して、binocular rivalryは意識以前の現象だから、必ずしも意識研究にとって有効な方法ではないという結論を期待していた。現実は、逆のようだ。ただ、すべてがnegative dataで逆のようだという結論に達しているから、強いことは言えない。

もし、積極的に逆を示している研究があるとしたら、2006年のCavanaghのVSSでの発表だ(http://journalofvision.org/6/6/818/ )。ただ、Cavanaghはものすごく慎重な議論をしていて、結局awarenessなしではrivalryは起きていないとは言わなかった。implicitにaudienceはそういう理解をしたかもしれないけれど、その微妙なラインを慎重に区別しているところに感心した。どちらにしても、awarenessなしでrivalryは起きていないという仮説をサポートするデータだった。

意識にのぼっていない刺激に対して、ambiguityを脳がまったく解消していないというのは、おもしろい。というのは、ambituityの解消を意識の機能の一つとして位置づけることができるからだ。もうすこし別の角度から実験していく必要もあるとおもう。もしbinocular rivalryが起きていなければ、implicitな刺激は競合せずにどちらも処理されていることになる。逆にそのことをprimingなどで示すことができるかもしれない。

いくらやってもうまくいかない実験というのは、publishできるのだろうか?きっと他にも同じことに挑戦してる人はいるはずだ。でも、まだ自分の実験が完璧でないだけで、もう少しうまくやればいい結果が出るという可能性もある。だから、null resultだけでは、何も言えないのは仕方がない。ここからどうするかが難しい。


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お金のクオリア

いま、ロンドンにいる。自分にはポンドという通貨に対するクオリアがないと気づいた。頭の中で2倍して、ドルに換算したお金で高いのか安いのか判断している。バーガーキングが4ポンドだったけど、8ドルだと思うと高いなと感じる。でも、ポンドのままだと判断できない。同じことを、ユーロに変換するとそれほど高いとは感じない。自分のなかでユーロとドルに対しては、日常の経験からクオリアというか、独特の5ユーロとか12ドルといったときの物価に対する感覚みたいなのがある。でも、ポンドにはそれが感じられない。ポンドで生活したことがないからだろう。自分の知っているものに変換しないと理解できないもの認知は、直接的でないからクオリアはないというべきだろう。

むしろ、そういう感覚というのは、そのお金で何が買えるかとか今までなじみの通貨でコーヒー一杯いくらぐらいだったかとか、そういう知識の総合としてお金の感覚になっている。クオリアというのはそういうものかもしれない。なじみがあって、そこから様々な情報を引き出せる状態になって、クオリアを獲得するのではないか。

さらに、お金というのは主観的なものだと思った。たいてい、日本円に換算するとすごく高く感じられる。なんでかというと、いままで、日本円でお金を稼いだことがないから、いまだに一万円というのは、ものすごく大金に感じられる。日本円についての自分のクオリアは子供のままだ。子供は一万円札に恐れ入ってしまうが、いまだにそういう感覚を引きずっている。でも、100ドルというのは、日本円に換算すると一万円以上のはずなのに、同じような感覚(クオリア)は生じない。理不尽だけど、主観的な感覚だからしょうがない。

経済学はクオリアというか、主観的な金額に対するインパクトのようなものを考慮しているのだろうか。お金の価値が何かということを考える上で、重要な要素のように思える。

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default mode network

基本的に興味があったわけではないけれど、default mode networkというのが、人と話してたりするとときどき出てくる。

PETやfMRIで脳活動をみると、休憩してるときの方が、頭を使うことをしているときも活動してる部分があるらしい(Raichle et al. 2001 )。そのような部位をまとめてdefault mode networkと呼んで、medial prefrontal cortexとposterior cingulate cortexが主な部位だ。

基本的に、いままでdefault mode networkのことはほとんど気にしてなかったが、Hampson et al. (2006) を読んで、もしかしたら根本的なアイデアが間違っているのではないかと思った。default mode networkについて詳しい訳ではないから確信はないが、メモのつもりで書いておく。

思ったことというのは、「もしかしたら、default mode networkはタスク中に活動を下げているのではなくて、thetaのpowerをあげて機能することで、逆にメタボリズムを下げているのではないか?」ということだ。Hampsonの論文のイントロでそういう可能性が議論されている。

まずrodentでhippocampusのthetaがあがるとメタボリズムが下がるということが実験で示されている(Uecker et al. 1997 )。

Frontal thetaがworking memory task中に上がるというのは、いくつか報告がある(Gevins et al. 1997Jensen & Tesche 2002 )。さらに、dipole estimationをするとこのthetaはmedial PFC/ACCが由来のようだ(Gevins et al. 1997 , Asada et al. 1999)。

だから、thetaによって機能的には上がっている状態なのに、メタボリズムで見るとタスク中には活動が下がっているように見えるのではないか?

あと、よくわからないのはfMRIでhippocampusを見てるペーパーでhippocampusが関わるタスクをしてると、fMRIで見た活動があがっていることを示してる論文が多いと思うのだけど、下がっているケースもある。

Theta waveの増強によってBOLDの減少が起きるのだろうか?あるいは、部位ごとに起きる場所とそうでない場所があるのか。そのへん詳しい人、教えてください。

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ヘビはなぜ怖いか?

以前紹介したTemple GrandinAnimals in Translation という本でおもしろい話があった。

なぜサルはヘビを怖がるのか?スタンダードな考え方は、おそらく次のどちらかだろう。

① 進化の過程で脳のなかにヘビのようなひょろ長いものを恐れるような回路が出来上がっっている。とくにアミグダラ(扁桃体)などで、ヘビに反応する回路が生まれながらできている。

② 個体ごとに、過去のヘビとの接触した経験から、ヘビは恐いと学習した。

どちらも、ありそうな話だが疑問が残る。①の場合は、そもそもDNAにヘビとはどういうものかという情報が何らかの形で刻み込まれていなければならない。例えば、視覚野のヘビ風の特徴をコードすることになるエリアからアミグダラへのニューロンの結合を促進するなどのことが起きる必要がある。そもそも、どこまで詳細な情報を遺伝のレベルで脳に刻み込むことができるのかがよくわからない。

一方で、②だとしたら、生存には適さないだろう。毒蛇に噛まれてから学習したのでは遅いから、生まれながらにヘビを怖れていたほうが、生き延びる確率は高いだろう。

おそらく、多くのひとはサルのアミグダラは生まれながらにヘビというものを知っていると考えているのではないだろうか。

Animals in Translation で出てきた話で面白かったというのは、実験室で育てられたサルはヘビを怖がらないが、野生のサルはヘビを怖がるということだ。Susan Minekaという人が、そのことについて研究していて、わかったことは、サルはヘビが恐いということを他のサルがヘビを怖がっているのを見て学んでいるということだ(参考用のレヴュー)。

これには、驚いた。ちょっとしたサルの文化みたいなものじゃないか。それでも、①の仮説がまったく間違っているという訳ではないようだ。ビデオでヘビを怖がっているサルを見せると確かにヘビを怖がるようになるのだが、編集してサルが花を怖がっている場面を見せても、花を怖がるようにはならないらしい。だから、もともと脳の中に怖いものとして認識される要素がなければ、観察によって恐怖を学ぶということは起きないと論じている。

この話を読んで、ビデオを使って理不尽な病的な恐怖を人から取り除くこともできるのではないかというアイデアが浮かんだ。脅迫神経障害の治療法では、薬で治療するのと、行動療法といって自分が嫌な環境をあえて体験してなれていく方法があるが、ビデオ療法が効果があれば一番楽で安全に恐怖心を克服できるのではないか。

それから、ヘビの問題は、もっと一般的な問題と結びついている。とくに気になるのは、どうやって生物は異性を認識できるのか。赤ちゃんでも、男と女の顔の区別ができるようだし、好みさえあるらしい。それは、かなり微妙な違いを見つける仕組みが遺伝子レベルで組み込まれていないといけないように思える。意外と、単純なワイアリングで可能なことなのかもしれないが、そうだとしてもそれを示さなければならない。

女の子をみてかわいいって思うのは、どこまでが脳の中に最初から組み込まれていて、どこまでが学習なのか。脳の中にそこまで繊細な違いを識別する方法が最初から組み込まれているのだろうか。生物にとっては重要なことだ。

あるいは、周りの人の反応を観察することで、自分の好みとか恐怖の対象も変わってしまうのか。社会心理学などでは、よくあるテーマだろう。でも、他人を観察することで自分の感情的な物事に対する評価が変化してしまうというのは、文化を脳という観点から考えるときに重要だし、CMなどで人々に影響を与えることを仕事にしているひとにとっても重要だろう。

このような学習をobservational learningという。テレビで暴力的な映像を流すことで、子供たちが凶暴になるのではないかという文脈でよく出てくる。observational learningがあらゆる場面で起きていることは間違えないが、実際に精神病の治療に役に立つような効果があるかは、実験で確かめる必要がある。興味を持った人は、ぜひ実験をしてほしい。


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Deep TMS

深いところを刺激するTMSというのがあるらしい。

Brainsway という会社が開発している。すぐに、みんなが使うようになるわけではないだろうけど、深いところこそ刺激したら面白そうな場所がたくさんある。


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動物の心と自閉症

いま、Temple Grandinという人の、Animals in Translation という本を読んでいる。

Animals in Translation: Using the Mysteries of Autism to Decode Animal Behavior Book Animals in Translation: Using the Mysteries of Autism to Decode Animal Behavior

著者:Temple Grandin,Catherine Johnson
販売元:Scribner
Amazon.co.jpで詳細を確認する


日本語では、『動物感覚』というなかなかいいタイトルがついている。

動物感覚―アニマル・マインドを読み解く Book 動物感覚―アニマル・マインドを読み解く

著者:テンプル グランディン,キャサリン ジョンソン
販売元:日本放送出版協会
Amazon.co.jpで詳細を確認する


実際には、読んでいるというよりは、本の朗読をダウンロードしてiPodで聴いている。この本には、なかなか面白いことが書いてある。

まず、この著者は自分が自閉症だと自ら認めていて、だからこそ動物の気持ちがわかると言っている。これは、自閉症と「心の理論(Theory  of Mind)」の関係を知っている人にとっては、変な感じがするだろう。自閉症の人は、他人の気持ちを理解・推測する能力に欠陥があるという仮説だ。人の気持ちよりも、動物の気持ちの方がわかるというのはどうも難しいように思える。

著者は、この本のなかで、何度も動物と自閉症の類似点を指摘している。細部に注意が向くことや、生活環境の変化を極端に嫌うこと、痛みに対する反応が普通の人間に比べて小さいことなどだ。逆に言えば、動物というのは自閉症のようなものだということになる。

この本ででてくる、痛みについての話がおもしろい。アントニオ・ダマシオのDescartes' Error にも出てくる話だ。昔は、痛みに苦しんでいる人(疼痛)の前頭葉に切れ目を入れる手術というのをしていたらしい。元の論文をみていないから、詳しいことはわからないが、前頭葉の一部をとってしまうというよりは、つながりを切ってしまうような手術らしい。

そのような手術を受けた人は、痛みというのは感じるのだが、痛みに対する不快感が減少するらしい。痛みと不快感というのは切っても切れない関係のようだが、脳を切れば切れるらしい。

これで、面白いと思うのは、痛みのクオリアそのものは変わっていないようだということだ。痛みに伴う不快感のクオリアがなくなったともいえるかもしれないが、おもしろい状況だ。

痛みとprefrontal cortex (PFC)の関係というのは至る所にでてくるが、よく知らない。少し調べてみると、Caseyというミシガンにいる人の研究では、DLPFCが中脳の活動を抑えることで、痛みの感覚を減らすという機能をもっているらしい。スポーツに集中してて、怪我の痛みに気づかないとかは、こういう状況だろう。この抑制はこの前のTsushima論文などとも通じるところがある。このことから、DLPFCをきっても、痛みはなくならないどころか、抑えることができなくなってしまう。

むしろ、痛みと直接関係しているのは、ventromedial OFCらしい。おそらく、切断されているのはOFCへのコネクションだろう。

痛みの話の他にも、行動学の視点から犬のしつけの仕方とか書いてあって面白い本だった。

それから、著者が18歳の時にスキナーという行動主義の代表のような人を訪ねて、緊張しながらハーバードまで会いに行ったら、セクハラにあったみたいなことも書いてあった。スキナーはただのエロオヤジなのか。

あと、セロトニンとボスサルの関係についての話もおもしろい。セロトニンが脳内に増える薬をあたえると、ボスサルになるらしい。人間もプロザックを飲めば、ボスとしての品格がもてるようになるのだろうか。

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E-text

さっきの、William Jamesが読めるサイト、とても気に入った。いろいろ読める。

http://www.bauddha.net/_e-text/index.html#index

とくにダーウィンが読めるところがいい。最近、紙媒体の本だとサーチがかけられなくて、不便だと感じることも多いから、こういうのはとてもいい。

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パイナップルのクオリア

先日、Peter Tseがカルテクに来ていた。ピーターと土谷と下條ラボの人々とリトル東京で焼き鳥を食べながら、意識についてあれこれと話した。結局、土谷とは朝の4時まで話してた。

気になるテーマはたくさんでてきたけれど、ここで意識に関係あることにしぼって書くと、「顔はクオリアか?」とか「パイナップルの味はクオリアか?」という一件単純な疑問に答えることが難しいということがある。

クオリアというと、「赤の赤らしさ」とかいう説明で、情報の主観的側面を指す用語なんだなどと、なんとなくわかったような気でいるが、よくわからない。どこからどこまでがクオリアなのか。

視覚に関していえば、低次の特徴、色や形なんかをクオリアというのはわかる。模様とかに対しても、クオリアって言っていいのだろうか。もっと高次の顔はどうか。知っている人の顔をみると、その人のらしい顔だとか感じることができる。そういう意味ではクオリアなんだろうと思う。

何かを認識できるものを持ってきて、「これはクオリアか?」といって簡単に答えることができないのは、単に言葉の問題である可能性が高い。つまり、科学者にとっては意味のない疑問なのかもしれない。でも、なんらかの基準で顔の認識がクオリアかと判断できないのであれば、クオリアという言葉自体に意味がなくなってしまう。

ピーターは、クオリアの条件はirreducibilityだろうといっていた。これ以上低次のものに還元できない感覚がクオリアだという考えだ。でも、顔はどうなんだろうか。目とか口に還元したら、やや顔らしさはなくなると考えるべきなのか、それとも還元できるからクオリアではないと考えるべきなのか。

同じように、A意識とP意識も、わからなくなることが多い。でも、自分にとってA意識とP意識は、実験を考えるときに、抽象的なレベルで役に立っている。でも、顔がクオリアかというのも、突き詰めて考えると、実験する科学者にとって意味をもつ概念になるだろうか。


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Quick Note:睡眠中に目を覚ましてる脳部位

ちょっとだけ気になったことのメモ。

レム睡眠中にprefrontal cortexの一部やlimbic, paralimbic regionなごが目を覚ましているらしい。

Nofzinger(1997)Braun (1997)、Muzur (2002) (まだまだ探したらでてくるかもしれない)

その部位にinsulaは含まれる。dorsolateral PFCは目を覚ましていない。prefrontalの中で目を覚ますところと覚まさないところがあるというのがおもしろい。

レム睡眠は、夢をみているときは、意識があるとみなす。この目を覚ますネットワークはかなり意識と関係が深いかもしれない。


自分の仕事用サイト(論文とイリュージョンデモを置いています)

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